1アスペニート2016/05/09(月)22:43:08.280ID:s99kOqxl0.net
もともとフランク族はローマ帝国と同盟を結んでて今のベルギーあたりにいた(五世紀くらい)
フランク王国
フランク王国(フランクおうこく、フランス語: Royaumes francs、ドイツ語: Fränkisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及ぶ。ゲルマン系フランク人のサリー・フランク族が建てた王国であることからこの名がある。首都は508年にパリに置かれ、カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれてここが事実上の首都となった。
2以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/09(月)22:43:53.311ID:d5oCu7ce0.net
そりゃもうフランクフルトよアメリカンドックなんか目じゃねえわ
5アスペニート2016/05/09(月)22:48:40.391ID:s99kOqxl0.net
>>2
フランクフルトの直接の語源はドイツの都市のフランクフルトらしいから
だとするとさらに遡ればこの食べ物の名前はもともとはフランク族に由来することになるな
3アスペニート2016/05/09(月)22:46:48.150ID:s99kOqxl0.net
でも西ローマ帝国の滅亡するあたりにフランク族の有力者にクロヴィスってすごいやつがあらわれてガリア(今のフランス)へ侵入
ローマ軍の生き残り政権とか西ゴート王国とかアラマニア王国とかの他のゲルマン人王国を片っ端からボコって
ガリアの大部分を統一した
これが6世紀初頭まで
6アスペニート2016/05/09(月)22:54:36.455ID:s99kOqxl0.net
書き忘れたけどクロヴィスの時代にフランク族は異教を捨ててキリスト教カトリックに改宗した

建国の英雄クロヴィスが死ぬと王国の領土は四人の息子がいたので四つに分割され長男のテウデリクの元でさらに領土を拡大した
でも三人の息子が次々に死んでその後継者も若死にすると
唯一生き残ったクロタール一世が全領地を短期間ながら再統一した

でもクロタール一世が死ぬとまた領土は四人の息子の間で分割
一人は割りとすぐ死んだので、ネウストリア王国、アウストラシア王国、ブルグント王国の三つの分王国成立した
7以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/09(月)22:54:50.670ID:xWraoaty0.net
結局フランク王国の後継者ってドイツなの?フランスなの?イタリアなの?
9アスペニート2016/05/09(月)22:57:13.552ID:s99kOqxl0.net
>>7
ドイツもフランスも両方じゃね
イタリアはあまりなさそう
>>8
ユスティニアヌスが東ゴート王国を滅ぼして奪還したよ
でもユスティニアヌスが死ぬと新たな蛮族ランゴバルド族がやってきてほとんどイタリアの領地奪われちゃった
8以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/09(月)22:55:28.851ID:bX0k4tjZ0.net
なんで東ローマはイタリア半島を奪還しなかったん?
9アスペニート2016/05/09(月)22:57:13.552ID:s99kOqxl0.net
>>7
ドイツもフランスも両方じゃね
イタリアはあまりなさそう
>>8
ユスティニアヌスが東ゴート王国を滅ぼして奪還したよ
でもユスティニアヌスが死ぬと新たな蛮族ランゴバルド族がやってきてほとんどイタリアの領地奪われちゃった
10アスペニート2016/05/09(月)23:01:17.385ID:s99kOqxl0.net
ネウストリア王のキルペリヒとアウストラシア王のシギベルトはそれぞれスペインの西ゴート王国から妃を貰っていたのだが
キルペリヒはその妃を殺害して持参金を奪った上に卑しい身分のフレデクンドを王妃するという暴挙に出る

これに対してシギベルトの妃のブルンビルドは殺された姉妹の復讐を要求
こうしてネウストリアとアウストラシアの間に争いが起きてそれにブルグント王国も絡んで血みどろの内乱が起きる
11アスペニート2016/05/09(月)23:07:13.136ID:s99kOqxl0.net
シギベルトとキルペリヒは相次いで暗殺者の刃に倒れ
フレデクンドとブルンビルドが幼い息子を擁して争い続けるうちに各地では在地の豪族たちが力を付け始める

この争いは一旦ブルンビルドが勝利を収めるかに見えたものの
その強権的な政治方針に反乱が相次ぎ最終的にはキルペリヒの子のクロタール二世がブルンビルドに対して勝利を収める

こうして分裂した王国は再びクロタール二世の元で再統一された
12アスペニート2016/05/09(月)23:10:52.001ID:s99kOqxl0.net
しかしこの間に地方の勢力の台頭は著しくアウストラシアの豪族は独自の王を戴くことをクロタール二世に要求
クロタール二世の幼い息子のダゴベルト一世をアウストラシア王につけたが
実権は宮宰の大ピピンやメッツ大司教のアルヌルフらに握られていた

彼らの子孫が後にカロリング朝を開くこおになる
13アスペニート2016/05/09(月)23:15:43.487ID:s99kOqxl0.net
成長したダゴベルト一世の治世までは国王が実権を握っていたものの
その死後は幼王が立ったこともあって各地の権力はそれぞれの「宮宰」と呼ばれる大臣に奪われてしまう

特にアウストラシアでは大ピピンの息子で宮宰になったグリモアルドが自分も息子を王に付けようとクーデターを起こすまでになる
この企ては失敗してグリモアルドは処刑されたが
大ピピンの娘とメッツ司教アルヌルフの息子の間に生まれた中ピピンが実権を握ってその野望を引き継いだ
14以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/09(月)23:16:37.549ID:SQuILvsA0.net
フルト王国を併合するのはいつごろなん?
15アスペニート2016/05/09(月)23:17:26.388ID:s99kOqxl0.net
>>14
フルト王国ってなんだ
16以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/09(月)23:18:42.484ID:SQuILvsA0.net
>>15
フランク王国の中心深くに突き刺さった棒状のアレだよ
17アスペニート2016/05/09(月)23:23:43.423ID:s99kOqxl0.net
>>16
マジレスするとドイツのフランクフルトっていうのはフランケン公国に由来してるはずで
フランケン公国っていうのはフランク王国がドイツ方面に進出する際に当たって根拠地とした場所から来てる
ちょうどこの中ピピンとかの時代に進出が進んだった気がするがうろ覚え
19アスペニート2016/05/09(月)23:27:19.540ID:s99kOqxl0.net
中ピピンはネウストリアやブルグント王国の宮宰を破って全フランク王国単独の宮宰となる
この中ピピンの庶子がカールマルテルで、彼は兄たちを退けて実権を握るともはや完全に国王のように振る舞い
お飾りの王が死没しても新しい王を立てずに平然としていた

この時代にイベリア半島のイスラーム勢力が南仏に侵入してきて
有名なトゥール・ポワティエ間の戦いが起こりカールマルテルが勝利した
20アスペニート2016/05/09(月)23:29:49.720ID:s99kOqxl0.net
カールマルテルが没すると息子の少ピピンが後を継ぎ、ローマ教皇からのお墨付きを得てついにクロヴィスの子孫から王位を奪って自ら国王に即位する
こうしてメロヴィング朝からカロリング朝へと王朝交代
21アスペニート2016/05/09(月)23:35:35.921ID:s99kOqxl0.net
小ピピンの息子にはカールとカールマンがいて領土は二つに分けられたが
兄弟の間で戦争が起きそうになった時に都合よくカールマンが没したのでカールが単独の王になった

カールは先祖の代からの伝統の征服戦争をさらに積極的に進め、
北イタリアのランゴバルド王国、異教徒のザクセン人国家などを併合してフランク王国の領土はここに最大化した

それまで法的には東ローマ皇帝の家来とされていたローマ教皇は
カールを後ろ盾として東ローマの影響力から逃れようと動き、西暦800年にはカールのローマ皇帝戴冠が実現した
22アスペニート2016/05/09(月)23:40:14.541ID:s99kOqxl0.net
飽きた
23アスペニート2016/05/09(月)23:48:27.931ID:s99kOqxl0.net
このあとカール大帝が死んでルイ敬虔帝が単独相続するけど
無茶な領土分割をしたせいで長子の優越権が怪しくなって王国から格上げしたフランク帝国はバラバラに

長男=イタリアとドイツとフランスの間(ロートリンゲン)
次男=ドイツ
三男=フランス
という風になったけど長男の息子の国はロートリンゲンは意地悪な叔父たちの食い物にされて消滅
イタリアもドイツとフランスの奪い合い
18アスペニート2016/05/09(月)23:24:48.168ID:s99kOqxl0.net
このスレ何も本見たりググったりせず適当に書いてるだけだから信用しちゃダメだぞ
24以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/09(月)23:59:27.803ID:g56UYSS10.net
それじゃあつぎは俺がこの前の時代の古代ゲルマンをうろ覚えで語ろうか
26以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/10(火)00:09:00.427ID:8HKMEgPa0.net
まず俗にいう「ゲルマン民族」の本格成立は紀元前5世紀ごろ
北部ドイツのヤストルフ文化圏にてゲルマン祖語が成立したところからとされている
このゲルマン祖語は多文化圏への浸透能力がけっこうたかく
前2世紀ごろまでにかけて東では半分プロトスラブ系なポメラニア文化などがゲルマン語し
西・南でもケルト系のラテーヌ文化と接触してそこでも文化融合してのゲルマン語化がすすむ
27アスペニート2016/05/10(火)00:11:20.734ID:k20qLX/20.net
古代すげー
33アスペニート2016/05/10(火)00:18:26.664ID:k20qLX/20.net
ちなみに「カール」という名前はアングロサクソン語で自由な農民を言う「ケオルル」という語と関係があるらしく
この事からもカロリング家はイングランドとかの北方との交易と深く結びついて力を蓄えた一族あるらしい
34以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/10(火)00:18:29.755ID:8HKMEgPa0.net
そんで前3世紀ごろには西はライン河の東岸 南はドナウ上流部 東はポーランド全域にまでゲルマン圏が拡大する
ただしこの全てが「ゲルマン人」と言えるかどうかは今日でも議論があり
たとえばポーランド南部のプシェヴォルスク文化圏(のちのヴァンダル族)などはスラヴ系ともいわれ
エルベ~ドナウ上流にひろがったスエビ圏はラテーヌの影響も強いため半分ケルト系じゃねとも言われてたり
35アスペニート2016/05/10(火)00:20:13.028ID:k20qLX/20.net
スエビとかボイイとかよくわからん
37以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/10(火)00:35:15.689ID:8HKMEgPa0.net
>>35
「スエビ」ってのは諸説あるけど
スエビ族という一つの部族社会が存在したわけではなく
だいたいはエルベ地域に居住した「ヘルミノネス(IrminonesあるいはHerminones)」というグループを指すみたい
日本語のニュアンスでは「スエビ族」ではなく「スエビ人」と言うのがより正確かも
ボイイはラテーヌ・ケルト系の部族
36以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/10(火)00:25:28.780ID:8HKMEgPa0.net
そんなこんなでゲルマン圏はすくすく育っていくも次第にいくつかの問題がでてくる
まず人口増加これは説明不要
そしてもう一つはバルト海の度重なる気候変動
このころはちょうどプチ変動期で海岸が前後しまくりで荒ぶっていたという考古学的な結果がでてる
かのローマを震撼させたキンブリ族もユトランド半島の故地を捨てた理由は
居住地が高潮で破壊されたためと伝わってる
これらが組み合わさりついにゲルマン人たちはいわゆる「ゲルマニア」という地域の外へと本格進出し始める
38アスペニート2016/05/10(火)00:35:18.352ID:k20qLX/20.net
なんか海岸線の上昇で住むとこなくなって移住みたいな話あったよね
39アスペニート2016/05/10(火)00:42:53.483ID:k20qLX/20.net
大変興味深いですね
40以下、\(^o^)/でVIPがお送りします2016/05/10(火)00:48:03.456ID:8HKMEgPa0.net
そんで前2世紀ごろからごりごりと進出していく
やはりラテーヌ圏が豊かに見えたのか特に西向きの動きがはげしかったとされている
ライン全域で西岸へと断続的な干渉そして隙あらば移住をこころみ
また下流域ではその影響でガリア人のゲルマン化(ベルガエ族)という現象も起こる
こうしたゲルマン勢力の圧迫はガリア社会にも多大な影響を及ぼしたとされている
たとえば城塞都市の原型「オッピドゥム」がちょうどこの時期に急速な増加・巨大化をみせたり
(そのうちドナウ上流域のは直後に使用されなくなる おそらくマルコマンニやクアディなどによって征服されたから)

こうした流れの中でも有名なのはやはりキンブリ・テウトニ族
前100年ごろにユトランドの故地を捨てた彼らはまずは南東に突きすすみパンノニアなどを攻撃するも
「やっぱ西がいい!」と転進してガリアを縦横無尽にヒャッハー
最終的には壊滅するものの一時はローマをも潰しかねないほどの勢いだった
1001オススメ記事@\(^o^)/2016/05/11 00:34:00 ID:narusoku