18:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:18:09ID:QZq
加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。
警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された。
札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、当時を以下のように物語る。
思わぬ材料に恵まれ歓喜の声をあげた学生たちは、ペンハロー指導教授のもとにさっそく解剖実習に取り掛かった。
(中略)教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切り取った。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋に飛び込んだ。
やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍しい肉を噛みしめていたが、だれ言うとなく
「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」
という声がほとばしり出た。
定刻になって師の呼ぶ声に一同は何食わぬ顔をして解剖室に集り、手に手にメスをふるって内臓切開に取り掛かったが、
元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。
女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。
そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。
なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学し当時は1年生だった新渡戸稲造も含まれている。
警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された。
札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、当時を以下のように物語る。
思わぬ材料に恵まれ歓喜の声をあげた学生たちは、ペンハロー指導教授のもとにさっそく解剖実習に取り掛かった。
(中略)教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切り取った。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋に飛び込んだ。
やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍しい肉を噛みしめていたが、だれ言うとなく
「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」
という声がほとばしり出た。
定刻になって師の呼ぶ声に一同は何食わぬ顔をして解剖室に集り、手に手にメスをふるって内臓切開に取り掛かったが、
元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。
女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。
そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。
なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学し当時は1年生だった新渡戸稲造も含まれている。
19:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:18:47ID:AWN
ヒグマといえば三毛別のやつだな
21:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:19:40ID:QZq
三毛別羆事件
三毛別羆事件とは、1915年(大正4年)12月9日 - 12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村(現:苫前町)三毛別(現:三渓)六線沢(正式な住所は北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地6号新区画開拓部落六線沢)で発生した、クマの獣害としては記録的な被害を出した事件。
六線沢熊害事件、苫前羆事件、苫前三毛別事件とも呼ばれる。
エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。
事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事件は終息した。
三毛別羆事件とは、1915年(大正4年)12月9日 - 12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村(現:苫前町)三毛別(現:三渓)六線沢(正式な住所は北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地6号新区画開拓部落六線沢)で発生した、クマの獣害としては記録的な被害を出した事件。
六線沢熊害事件、苫前羆事件、苫前三毛別事件とも呼ばれる。
エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。
事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事件は終息した。
23:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:20:56ID:QZq
事件の経緯
事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。
地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。
なお、六線沢の住民は東北などから移住してきた人々で、元々住んでいた者はいない。
事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。
地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。
なお、六線沢の住民は東北などから移住してきた人々で、元々住んでいた者はいない。
25:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:23:39ID:IJJ
猟銃の性能も今と昔では違うだろうし…。
26:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:23:58ID:21W
なんであんな生命体居るんやろな
27:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:24:41ID:QZq
池田家の騒動
1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。
飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害はわずかなものに留まった。
村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田 富蔵はぬかるみに残った足跡の大きさに懸念を持った。
11月20日、ふたたびヒグマが現れた。
馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から谷 喜八と金子 富蔵という2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。
30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。
その夜、長男・富吉や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。
このマタギは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。
さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。
1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。
飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害はわずかなものに留まった。
村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田 富蔵はぬかるみに残った足跡の大きさに懸念を持った。
11月20日、ふたたびヒグマが現れた。
馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から谷 喜八と金子 富蔵という2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。
30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。
その夜、長男・富吉や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。
このマタギは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。
さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。
28:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:26:30ID:QZq
12月9日
太田家の惨劇
秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。
三毛別のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男性達の多くは出払っていた。
12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松 要吉(当時59歳 通称オド)が一足早く仕事に向かい、
当主の太田 三郎(当時42歳)も氷橋に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部 マユ(当時34歳)と太田家に預けられていた少年・蓮見 幹雄(当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。
同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。
ふざけて狸寝入りしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込んだ。
その時、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。
側頭部には親指大の穴が穿
たれ、すでに幹雄は亡くなっていた。
要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。
ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の架橋現場に走った。
太田家の惨劇
秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。
三毛別のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男性達の多くは出払っていた。
12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松 要吉(当時59歳 通称オド)が一足早く仕事に向かい、
当主の太田 三郎(当時42歳)も氷橋に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部 マユ(当時34歳)と太田家に預けられていた少年・蓮見 幹雄(当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。
同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。
ふざけて狸寝入りしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込んだ。
その時、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。
側頭部には親指大の穴が穿
たれ、すでに幹雄は亡くなっていた。
要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。
ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の架橋現場に走った。
29:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:27:36ID:QZq
駆けつけた村の男性達は、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。
入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。
おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。
足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。
ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。
それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。
そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた。
要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯が転がっていたという。
そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。
実は事件直後、三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。
彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。
このことから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。
入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。
おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。
足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。
ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。
それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。
そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた。
要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯が転がっていたという。
そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。
実は事件直後、三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。
彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。
このことから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。
30:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:28:53ID:QZq
事件の報に村は大騒動となった。
しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。
男性達は太田家から500m程下流の明景 安太郎(当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。
ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。
しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。
太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤 石五郎(当時42歳)が引き受けることになった。
太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならない明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。
しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。
男性達は太田家から500m程下流の明景 安太郎(当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。
ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。
しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。
太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤 石五郎(当時42歳)が引き受けることになった。
太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならない明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。
31:名無しさん@おーぷん:2016/07/09(土)04:30:08ID:QZq
12月10日
捜索
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男性達は、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。
昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。
馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。
鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった。
怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気付いた。
その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。
このヒグマは人間の肉の味を覚えた。
マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。
捜索
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男性達は、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。
昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。
馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。
鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった。
怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気付いた。
その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。
このヒグマは人間の肉の味を覚えた。
マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。
1001:オススメ記事@\(^o^)/:2016/07/10 00:09:00 ID:narusoku
この記事が気に入ったらイイネ!しよう♪
いつでも全部読み放題♫