1名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:00:47ID:QZq
北海道は朝の3時半には日が出て明るくなり始める。
ヨガ明宝ヒグマの怖さを淡々とはっていくで!
出店はウィキペディアやで!
2名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:02:20ID:QZq
石狩沼田幌新事件

石狩沼田幌新事件とは、大正12年(1923年)8月21日の深夜から8月24日にかけて、北海道雨竜郡沼田町の幌新地区で発生した、記録されたものとしては日本史上2番目に大きな被害を出した獣害事件。
ヒグマが開拓民の一家や駆除に出向いた猟師を襲い、4名が死亡、3名の重傷者を出した。
3名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:04:12ID:QZq
8月21日
大正12年8月21日、沼田町内の恵比島地区で、太子講の祭りが開催された。
日ごろ娯楽も少ない開拓地ゆえ、余興で上演される浪花節や人情芝居を目当てに、近隣の村落から多くの人々が詰め掛けた。

最初の襲撃
村民を熱狂させた祭りも午後11時半頃にはお開きとなり、幌新地区の支線の沢や本通筋から祭りに参加していた一団も、夜の山道を家路へと急いでいた。
一行が幌新本通りの沢に差し掛かった頃、小用のため50mほど遅れて歩いていた林謙三郎(19)が、突然現れた巨大なヒグマに背後から襲われた。
しかし、まだ若い彼は死力を尽くして暴れ、帯や着物を裂かれながらも何とか脱出に成功する。
そして恐怖に怯むこともなく、前方を歩く一団に急を知らせた。
一方、先回りしたヒグマは一団の先頭部を歩いていた村田幸次郎(15) を撲殺し、幸次郎の兄・由郎(18) に重傷を負わせると、彼を生きたまま土中に埋めた。
そして、幸次郎の遺体を腹部から食い始めた。
4名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:06:02ID:jDA
こわe
5名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:06:46ID:QZq
暗闇の念仏
パニックに陥った一団は、そこから300mほど離れた木造平屋建ての農家・持地乙松宅に逃げ込み、屋根裏や押入れの中に身を隠し、囲炉裏にガンピ(シラカバの皮)を大量にくべて火を強めるなどしてヒグマに立ち向かう手はずを整える。
やがて30分ほど経過した頃、件のヒグマが幸次郎の内臓を食いつつ持地宅に現れ、ガラス窓から屋内を伺い始めた。
家人は座布団や笊などを投げつけて追い払おうとしたところ、ヒグマは玄関に回ろうとする。
村田兄弟の父親・三太郎(54) は入れるまいとして必死になって戸を押さえていたが、ヒグマは戸を三太郎ごと押し倒し、屋内に侵入した。
三太郎は咄嗟にスコップを構えて立ち向かったものの叩き伏せられ、重傷を負った。
ヒグマは囲炉裏で盛んに燃え上がる火を恐れることもなく踏み消し、部屋の隅で恐怖に震えていた母親・ウメ(56)を咥え上げると、そのまま家を出ていこうとする。
三太郎は自らの深手も忘れ、半狂乱になってヒグマをスコップで打ち据えるが、意に介すこともなく向かいの山中へとウメを引きずっていく。
ウメが助けを求める叫び声が2、3度響いた後、かすかな念仏が何度も続けて聞こえてきたが、それも次第に遠ざかり、夜風に吹き消されてしまった。
6名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:07:29ID:QZq
8月22日
妻子を奪われた三太郎はじめ、避難民らは心身ともに苦痛に苛まれ、焦燥に駆られるばかりだった。
しかし銃の備えもない農家ゆえ、屋内に閉じこもってわが身を守る以外に打つ手は無い。
むなしい思いの中で22日の朝がきたところで、事情を知らない村民が持地宅のそばを偶然通りかかった。
屋内の一団は大声で助けを求め、すでにヒグマが去ったことを聞きつけた上で戸外へとまろび出た。
近隣の藪の中で下半身をすべて食われたウメの遺体が見つかり、土中に埋められた由郎も発見。
まだ息があったため由郎は直ぐさま沼田市街の病院に送られたが、結局病院で死亡した。
7名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:08:21ID:QZq
8月23日
山中に消えた狩人

22日のうちに、惨劇は沼田町全域に知れ渡った。
翌23日には、熊撃ち名人として名高い砂澤友太郎をはじめ雨竜村(現在の雨竜町)の伏古集落在住の3人のアイヌの狩人が応援に駆けつけた。
そのうちの1人・長江政太郎(56)は凶悪なヒグマの話を聞きつけて憤慨し、「そのような悪い熊は、ぜひとも自分が仕留めなければならない」と、周囲が止めるのも聞かず単身でヒグマ退治に赴いたものの、山中で数発の銃声を響かせたきり行方知れずとなった。
8■忍法帖【Lv=1,ひとくいが,Nbq】2016/07/09(土)04:08:34ID:ALp
ヒグマと格闘して勝つジジイたまにいるけどほんとすげ
9名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:09:48ID:QZq
ヒグマの最期

24日。在郷軍人、消防団、青年団など総勢300人あまりの応援部隊が幌新地区に到着した。
さらに、幌新、恵比島の集落民のうち60歳未満の男子が残らず出動し、村始まって以来のヒグマ討伐隊が結成された。
ところが、一行が山中に分け入ってまもなく加害ヒグマが現れ、討伐隊の最後尾にいた上野由松(57) が一撃で撲殺された。
ヒグマは折笠徳治にも重傷を負わせ、咆哮を上げつつ別の討伐隊メンバーに襲いかかろうとしたが、現役除隊間もない軍人が咄嗟に放った銃弾が命中。
さらに鉄砲隊が一斉射撃を浴びせたことにより、凶悪なヒグマもついに斃された。
この現場のすぐそばで、23日に行方不明になっていた長江政太郎が、頭部以外をすべて食い尽くされた状態の遺体として発見された。
ヒグマが討ち取られた時点で、村田幸次郎、村田ウメ、長江政太郎、上野由松の計4人が死亡し、村田由郎、林謙三郎、村田三太郎、折笠徳治の4人が重傷を負っていた。
加害クマは、体長2m、体重200kgの雄成獣だった。
解剖の結果、胃からは大きな笊一杯分にも及ぶ人骨と、未消化の人の指が発見された。
11名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:10:52ID:QZq
その後

このヒグマの毛皮は幌新小学校に保存されていたが、昭和42年(1967年)に幌新小学校が廃校になった後は幌新会館に移され、現在では沼田町郷土資料館に展示されている。
また、重傷を負った林謙三郎は、その後一度も山に入らなかったという。
なお、事件の舞台である幌新太刀別川上流部では、その後炭鉱が開発された。
それに伴って山中に2千人以上の人口を有する小都市が生まれ、恵比島駅を基点とする留萠本線の支線・留萠鉄道も開通して大いに栄えた。
しかし昭和40年代の炭鉱閉山と共にゴーストタウンと化し、現在では幌新ダム貯水池の底に沈んでいる。
12名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:12:12ID:QZq
札幌丘珠事件

札幌丘珠事件とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)で発生した、記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害を出した獣害事件。
冬眠から理不尽な形で目を覚まされたヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名を出した。
13名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:12:52ID:QZq
事件の経緯
石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)で起きた獣害事件である。
現在の札幌市は人口200万人弱と東北以北最大の都市であるが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。
人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8000人に満たなかった。
14名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:13:18ID:CeM
ヒグマほんとこわいわ
山の近くにすんでなくてほんとよかった
15名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:13:46ID:QZq
第一の事件

1878年(明治11年)1月11日、爾志通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見する。
早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡する。
理不尽な形で冬眠を覚まされたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された。
同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現:札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。
しかしヒグマは月寒村(現:豊平区月寒)、白石村(現:札幌市白石区)と逃走。
再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。
そして再度豊平川を渡り、雁来(現:札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった。
これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。
17名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:15:46ID:QZq
第二の事件
犠牲になった堺一家の家屋は、俗に「拝み小屋」と呼ばれる形式の簡素な小屋だった
札幌区の北西部・丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)。
アイヌ語の「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)を地名語源とするこの地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、やはり当時は古木が延々と連なる森林地帯であった。
その中に細々と拝み小屋を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。
明治6年ころこの地に入植した堺倉吉も、そのような開拓民の一人であった。
妻・リツと周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。
やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった。
17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。
異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒する。
妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまう。
リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつも村民に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。
結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇女は重傷を負った。
18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。
駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された。
18名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:18:09ID:QZq
加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。
警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された。
札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、当時を以下のように物語る。

思わぬ材料に恵まれ歓喜の声をあげた学生たちは、ペンハロー指導教授のもとにさっそく解剖実習に取り掛かった。
(中略)教授の目をかすめて二三のものがひそかに一塊の肉を切り取った。そして休憩時間を待ちかねて小使部屋に飛び込んだ。
やがてその肉片が燃えさかる炭火の上にかざされた。そして醤油にひたす者、口に投げ込む者、我も我もと珍しい肉を噛みしめていたが、だれ言うとなく
「熊の肉は臭いなァ、恐ろしく堅いなァ」
という声がほとばしり出た。
定刻になって師の呼ぶ声に一同は何食わぬ顔をして解剖室に集り、手に手にメスをふるって内臓切開に取り掛かったが、
元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。
女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。
そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した。

なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学し当時は1年生だった新渡戸稲造も含まれている。
19名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:18:47ID:AWN
ヒグマといえば三毛別のやつだな
21名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:19:40ID:QZq
三毛別羆事件

三毛別羆事件とは、1915年(大正4年)12月9日 - 12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村(現:苫前町)三毛別(現:三渓)六線沢(正式な住所は北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地6号新区画開拓部落六線沢)で発生した、クマの獣害としては記録的な被害を出した事件。
六線沢熊害事件、苫前羆事件、苫前三毛別事件とも呼ばれる。
エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。
事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事件は終息した。
23名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:20:56ID:QZq
事件の経緯

事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。
地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。
なお、六線沢の住民は東北などから移住してきた人々で、元々住んでいた者はいない。
25名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:23:39ID:IJJ
猟銃の性能も今と昔では違うだろうし…。
26名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:23:58ID:21W
なんであんな生命体居るんやろな
27名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:24:41ID:QZq
池田家の騒動

1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。
飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害はわずかなものに留まった。
村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田 富蔵はぬかるみに残った足跡の大きさに懸念を持った。

11月20日、ふたたびヒグマが現れた。
馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から谷 喜八と金子 富蔵という2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。

30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。
その夜、長男・富吉や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。
このマタギは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。
さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。
28名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:26:30ID:QZq
12月9日
太田家の惨劇

秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。
三毛別のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男性達の多くは出払っていた。

12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松 要吉(当時59歳 通称オド)が一足早く仕事に向かい、
当主の太田 三郎(当時42歳)も氷橋に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部 マユ(当時34歳)と太田家に預けられていた少年・蓮見 幹雄(当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。

同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。
ふざけて狸寝入りしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込んだ。
その時、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。
側頭部には親指大の穴が穿
たれ、すでに幹雄は亡くなっていた。
要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。
ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の架橋現場に走った。
29名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:27:36ID:QZq
駆けつけた村の男性達は、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。
入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。
おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。
足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。
ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。
それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。
そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた。

要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯が転がっていたという。
そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。
実は事件直後、三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。
彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。
このことから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。
30名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:28:53ID:QZq
事件の報に村は大騒動となった。
しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。
男性達は太田家から500m程下流の明景 安太郎(当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。
ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。
しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。
太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤 石五郎(当時42歳)が引き受けることになった。
太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならない明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。
31名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:30:08ID:QZq
12月10日
捜索

早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男性達は、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。
昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。
馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。
鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった。
怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気付いた。
その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。

このヒグマは人間の肉の味を覚えた。
マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。
32名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:30:37ID:z0l
熊こわい
33名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:31:20ID:QZq
太田家への再襲

夜になり、幹雄の両親とその知人の3名が到着。
太田家では幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのは六線沢から3人、三毛別から2人と幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった。
幹雄の実母・蓮見 チセ(当時33歳)が酒の酌に回っていた午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。
棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。
混乱の中、ある男性はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。
以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。

この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男性が撃ちかけた。
さらに300m程離れた中川孫一宅で食事をしていた50人ほどの男性達が、物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、その頃にはヒグマはすでに姿を消していた。
犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。
36名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:33:14ID:QZq
明景家の惨劇

その頃、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(当時10歳)、次男・勇次郎(当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(当時3歳)、四男・梅吉(当時1歳)の6人と、
斉藤家から避難していたタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。
前日の太田家の騒動を受け、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。
護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出掛けており不在だった。
太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。

太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分頃、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。
ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉は無い。
その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。
かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。
38名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:35:00ID:QZq
ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。
そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた後、3人を手元に引きずり込み、ヤヨの頭部をかじった。
だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。

追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。
要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。
ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。
この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。
居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。

川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。
そこへ重傷のヤヨと子供達がたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。
途中で、重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護した後、男性達は明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。
中からは、タケと思われる女のうめき声と、肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。
一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。
一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。
裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男性達の前に現れた。
先頭の男性が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。
39名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:36:30ID:QZq
ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。
上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には少し動いていたという。
しかし一時間後には死亡した。力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。
ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。
急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。
日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。
巌は肩や胸にかみつかれた傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。

六線沢の全15戸の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。
巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。
この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。
重傷者達は翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日になった。
40名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:37:12ID:QZq
12月11日
すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影はなく、おびえながら固く戸締りをした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が、昨夜から不気味に寒村を照らしていた。
小村の住民だけではもはやなす術なく、三毛別地区区長の大川与三吉(当時47歳)と、村の長老や有志、駐在所巡査、御料局分担区員、分教場教師らが話し合い、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。
その一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、役場と警察に太田家の事件報告を終えて10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路についた。
下流の三毛別にたどり着き、妻子の受難を知らされ、呆然と雪上に倒れ伏しただ慟哭をあげるしかなかった。
41名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:38:19ID:QZq
12月12日
討伐隊の組織

六線沢ヒグマ襲撃の連絡は北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の 菅貢に討伐隊の組織が指示された。
一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマの糞を発見した。
それを検分し、中から人骨・髪の毛・未消化の人肉を見つけると、立ちすくんだ。

菅警部は近隣の青年会や消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃や刃物類、日本刀を携えた者を含め、多くの人員が三毛別に集まった。
副隊長には土地勘がある帝室林野局の人物と三毛別分教場の教頭を置き、隊長の菅警部は要所を固める一方、討伐隊を差し向けた。
しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった。
42名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:39:36ID:QZq
待ち伏せ

夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。
ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。
これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れた。
菅隊長は目的のためこの案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。
だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。
事態はそれだけ切迫していた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された。

作戦はただちに実行された。
銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が、補強した梁の上でヒグマを待った。
居間に置かれた胎児を含む6遺体の死臭の中、森から姿を現したヒグマに一同固唾を飲んで好機を待った。
しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。
男性たちはそのまま翌日まで待ち伏せたがヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。
43名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:40:47ID:QZq
12月13日

この日、旭川の陸軍第7師団から歩兵第28連隊が事件解決のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した。
一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていた。
飼われていた鶏を食い殺し、味噌や鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに、服や寝具などをずたずたにしていた。
中でも特徴的なのは、女が使っていた枕や、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様なほどの執着を示していた点だった。
三毛別川右岸の8軒がこの被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった。

しかし、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。
味を占めた獲物が見つからず、昼間であるにもかかわらず大胆に人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。
そして、行動域がだんだんと下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識できていなかった。
菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。

そして夜、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。
六株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかも微かに動いているものがある。
報告を受けた菅隊長が、「人か、熊か!」と大声で誰何するも返答がない。
隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。
すると怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。
やはり問題のヒグマだったのだと、仕留めそこないを悔やむ声も上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。
44名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:42:53ID:QZq
12月14日
最期

空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。
銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。
一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(当時57歳)という熊撃ちがいた。
鬼鹿村温根に住む兵吉は、若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、天塩国でも評判が高いマタギだった。
彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、だれもが悔しがった。
孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。

兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。
ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。
その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在には全く気づいていない。
音をたてぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。
銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。
しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。
兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。
12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠られた姿だった。
45名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:44:02ID:QZq
熊風

ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。
推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。
これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。
隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者など様々だった。
やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。
終わってみると12日からの三日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。

ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。
しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。
すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。
言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。
この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。
46名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:45:41ID:S9g
グロい…
51名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:46:46ID:QZq
解剖
猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれた。
雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。
あるマタギは、「旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。
山本兵吉は、「このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴に違いない」と述べた。
解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみを新たにした。
犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味は良くなかったという。
皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。
その後肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。
毛皮や頭蓋骨は消息不明である。
52名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:46:58ID:21W
そろそろ本気的に熊を駆除していかなあかんやろ、可哀想云々の問題やなくて
53名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:47:19ID:IJJ
普段から鉄砲の手入れが行き届いていればあるいは違った展開が…?
54名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:48:26ID:QZq
その後

頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛みつかれた明景梅吉は、後遺症に苦しみつつ2年8ヶ月後に死亡した。
この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。
同じ家でヒグマの襲撃から生還した明景勇次郎は、事件の27年後に太平洋戦争で戦死した。
長松要吉も回復し翌春には仕事に戻ったが、川に転落して死亡した。
ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。

事件は解決しても、村人に心理的恐怖を残した。
村外を頼れる者は早々に六線沢を去ったが、多くはそのようなつてを持っていなかった。
壊された家屋を修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火に当たりながら、なんとか越冬した。
しかし春になっても村人は気力を取り戻せず、家族を亡くした太田三郎は家を焼き払って羽幌へ去り、その後生まれ育った青森に移ったというが早くして死去したしたという。
六線沢は、ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。

ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。
彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。

区長の大川与三吉の息子・大川 春義(当時7歳)は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。
これは、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓(旧三毛別)の三渓神社に建立した。
また春義の息子・高義も同じくハンターとなり、1980年には、父・春義も追跡していた体重500kgという大ヒグマ「北海太郎」を8年がかりの追跡の末に仕留めている。
さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。
55名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:50:08ID:QZq
以上、道民のワイがヒグマの怖さをウィキペディアからコピペしたで。

なお九州ではサメの食害もあるらしいなあ。

天草遊泳中女子中学生サメ襲撃死亡事故
1982年8月29日午後1時40分頃、熊本県天草郡大矢野町串の沖に浮かぶ
羽干島近くの海で、熊本市の会社員Aさんi一家がヨットで楽しんでいた。
長女B子さん(13)と弟2人が泳ぎたいと言い出したので救命胴衣を着せ、
ヨットの船尾に結んだロープとつないでヨットを走らせながら引っ張っていた。
30分程たった頃、B子さんが「お父さん、引っ張って…」と声を上げた直後、一瞬のうち海中に沈んだ。
Aさんがすぐ救い上げたが、B子さんは腹部を食いちぎられ、即死状態だった。
B子さんは胸の下半分から下腹部にかけて 鋭利な刃物で切り取られたようになっており、
内蔵はほとんどない状態だった。 歯型の跡も残っていた。
B子さんは扇形に泳いでいた3人の真ん中にいたうえ、
弟たちより1メートルほど長いロープを付けていたという。
56名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:51:05ID:IJJ
1980年代に入ってからも化け物クラスの熊が出ているだと…
60名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:53:15ID:z0l
若手の猟師を育てなきゃ
61名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:53:35ID:QZq
あと有名な事件では
「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」
があるが、あれは子供の雌グマがワンゲル部員と遊ぼうとして3人殺した事件だから入れなかった。
食われてはいないからね。
67名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:58:12ID:S9g
>>61
調べたらたまげた。
今で言えばTwitterで熊に襲われる実況しながら死んだようなものやな。

確かロシアで母親に電話で別れを言いながら熊に食われた女の子の話もあったような…
70名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)05:02:06ID:QZq
>>67
熊に食べられる自分を実況した少女

2011年8月13日、オルガ・モスカヨワ(19)は、継父のイゴール・チガネンコフさんと一緒にキャンプ旅行に来ていた。
正午頃、川原でイゴールさんが休んでいると、突然、背の高く生い茂った葦の中から巨大なヒグマが襲いかかって来た。
イゴールさんは抵抗する間もなく一撃で首の骨を折られ、さらに頭骨を圧し割られ死亡。

その継父が殺される様子を近くの葦の奥で目撃したオルガさんは、直ぐにその場から逃げる事を試みたが、彼女の存在に気付いたヒグマの反応は素早かった。
70ヤード程逃げた地点で、彼女は足を攻撃され身動きが取れなくなった。
そしてヒグマは彼女の体を下半身から生きたまま喰い始めた。

その絶望的な状況下で、彼女は手持ちの携帯電話で母親のタティアナさんに助けを求める電話を掛けている。
71名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)05:03:13ID:QZq
タティアナさんが電話にでると、
『 ママ!! クマが私を食べている! ひどく痛い! たすけて!!』
という娘のオルガさんの声が聞こえ、当初、いつもの娘の悪いジョークだと思ったものの、近くで獣の息遣いと何かを食べる粗食音が聞こえた為に現実を理解し、
動転しながらも夫のイゴールさんの携帯電話に掛けたが、イゴールさんは既にヒグマに殺害されているので、当然、電話に出る事はなかった。

タティアナさんは夫が電話に出ないので、直ぐにキャンプ地近くのTermalniy村の警察に通報、その通報する最中、オルガさんからタティアナさんに二度目の電話が掛かってきた。
『 ママ・・・、クマが戻ってきた・・・・3頭のコグマを連れてきて・・彼らが私を食べているわ・・・』
と弱々しい声で語り、電話が途切れてしまった。

タティアナさんは警察に事情を伝え救援を急ぐ様に要請し、夫の親族にも様子を見に行って欲しい旨を連絡。それから数分後に、再度、オルガさんからの三度目の着信を知らせる音が鳴り響く。
『ママ・・もう噛まれていないわ・・。 痛みも感じなくなったわ・・・・今までごめんなさい。 凄く愛してる。』
と自身の死を悟ったかの様な電話内容であり、また、この三度目の電話の声が母親が最後に聞く娘の声となった。

最後の電話から約30分後、通報を受けた警察とイゴールさんの兄弟は現地に到着。
彼等が目にした物は、イゴールさんを食べているヒグマの親子と、無残な姿で亡骸と化したオルガだった。
72名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)05:05:22ID:IJJ
ヒエッ…
77名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)05:44:54ID:pLu
痛みでは止まってくれないのが野性動物
そのうえ人の骨でも止まっちゃうような貧弱な弾では致命傷にならないからな
86名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)07:27:16ID:PFd
何でこんなクッソ怖い動物がマスコット化されてるんですかねぇ
91名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)10:00:22ID:Xwx
アメリカじゃヘリパイロットが遭難した時の
ために、熊撃ち用のリボルバーマグナムあるぐらいやからね。
96名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)10:22:17ID:ln6
福岡大のワンダーホーゲル部の手記がいちばん怖い
「また、ガスが濃くなって・・・」が最後の言葉になるやつ
58名無しさん@おーぷん2016/07/09(土)04:51:41ID:z0l
熊の怖さが良くわかった
1001オススメ記事@\(^o^)/2016/07/10 00:09:00 ID:narusoku